「いってきます」
今朝のとは違う、殉教者のような不穏な後ろ姿を見送る。
空は今朝までとは打って変わって曇天になりつつあった。
「雨になるかもしれない」
「それじゃ魔除けは…」
「流されて効果が短くなるかも」
ジーが持ってきた剣はジェレミーが振り回せるものではあった。
でも、やはり右腕は痛む様子で。
「御者の彼は魔物は相手したことないから…自分の身を守って逃げてくることはできると思うけれど援護までは無理だ」
魔物の盗伐はそれなりに知識が必要らしい。
人間や獣とは違う反射速度と攻撃・行動特性があり、聞いているのと実際にやるのとは全く訳が違うのだと、ジェレミーが力になりたいと申し出た御者のデューイを説き伏せたらしかった。
コーウィッヂもその意見には全面賛成していたのでそうなのだろう。
コーウィッヂにその知識があるのは、どこかで魔物を見たことがあるということなのか、はたまた崖地でいろいろあるから先代から聞いたのか。
領地を守るには生中な知識ではいけないということだろう。
でもユンは、コーウィッヂの一番の心配はそれではなかろうと踏んでいた。
—————別館に魔物が侵入するようなことがあったら。
魔力はないのでわからないだろうが、力で強行突破は可能なはず。
コビとシロヒゲは逃げられるだろうが、みどりちゃんは?
逃げおおせられればいいが、みどりちゃんが食われたら? その逆は? 魔物同士の邂逅で何かが起きえないか?
「リアさん、ユンさん、チリカの3人で、備蓄できる食材や日用品を全部上階に上げて。
ジーは外にある武器になりそうなものを同じように上階へ。
メイちゃんも屋内避難させて。
あとは…」
バタバタしているうちに日が落ちていく。
ただでさえ曇り空で薄暗かったのに、いつの間にか真っ暗。
夕食に集まった雇われ人一同は、コーウィッヂが今この場に同席していることによって昨日までいた3人がいないのを痛感した。
「「「「いただきます」」」」
伝達事項がないこと、物音がないこと、雨音が響きだしたこと。
コーウィッヂが静かなこと。
不安過ぎる。
いつも喋る人が喋らないのがこんなに不安なものなのか。
ジーはちらちらと時折コーウィッヂと視線を交わしている。
コミュニケーションをとれているとは思えないので、話出すタイミングをうかがっているのだろう。
皿が空になり、それでも静かなままで。
離席のタイミングが掴めないでいたところで、コーウィッヂが口火を切った。
「今夜は…というかこれ以降、あの人たちが帰ってくるまで絶対に上階から出ないように。
大丈夫とは思うけど、万が一にも魔除けの効き目が薄れた時、ここに魔物が侵入する可能性があるから。
討伐にもっていかせた魔除け以外に、各自も手持ちの魔除けを持っていると思う。
肌身離さず持っててね。
チリカ、リアさん、臨時手伝いなのにこんな大ごとに巻き込まれる羽目になっちゃってごめん」
「しょうがないでしょ」
「そーよ! そんなこともあるわ! というか人生にそんな経験することがあるとは思ってなかったからちょっと私とかワクワクなくらいだもの」
そんなリアをジーは不安げに横目で見ていた。
ユンは3人の人生の先輩方とコーウィッヂの言葉に、頷くというか、うつむくというか、曖昧な仕草になってしまった。
コーウィッヂはそんなユンにやはり気づいたようだった。
「大丈夫。やることはやってる。
後は…なるようになるから」
いつもの笑み。
完璧にいつもの…。
コーウィッヂが立ち去った後、残りの作業をかたずけ、速やかに上階へ。
雨音がさほど激しくないのは幸いだろう。
そう思いつつも、夜が深くなるにつれ、刻一刻と過ぎる時がユンの目を冴え冴えとさせた。
—————絶対に眠れない。
自信があった。
というかこの状況で爆睡かませる奴がいたらどんな神経の持ち主か聞いてみたいものだ。
いや、むしろ聞くまでもないか。きっと『眠かった』とかだ。鋼メンタルめ。
物音がない。
出るな、と言われた。
水も当然あり、万が一のため食料もある。
各自別々の自室に籠れと言われたのは、他でもない。
一か所にまとまっていて全員殺られるよりは、だれか一人でも別の部屋にいたら生き延びられるだろうという話だった。
にしても二人一部屋にしてもいいじゃないかと内心思ったのだが、言い出せなかったのは先輩方がシャキッとしていたからに他ならない。
みんな内心同じような感じだといいのに。
そして今のユンのように、部屋の外の様子が気になって仕方がない! そんな気持ちだといいのに。
立ち上がって窓のカーテンの隙間からちらりと外を覗く。
霧雨で視界が悪い。
全部が煙るようで、地面と森と空がぼんやりと区切られている他は何もわからなかった。
外から見られているのではないかと怖くなって、ベッドに戻る。
足音を立てないようにしてもギシリと音を立てる床。
自分の部屋のドア。
みどりちゃんの音はない。
怖いもの見たさ。
—————ダメダメ。
心で思うのとは裏腹、手には火のついたランタン、足はドアに向いている。
—————この状況だぞ、ダメだってば。
でも、魔物がもし屋敷内に侵入したら、こんな静かなんだから、もっと盛大に物音とかするだろう。
大丈夫なんじゃないか?
—————だめ! 魔物以上に私、魔がさしてる。
ユンの手の平は、冷たくしっとりとしたドアノブを握っている。
—————手を離す!
ユンが手を離したのは、ドアノブをぐるりと回し、ドアを開け、廊下に出た後だった。
何かが見えた。
コーウィッヂの部屋のすぐ前の手すりのあたり。
何かは階段の手すりに足をかけて、そのまま飛び降りた。
音はなかった。
着地音もなかった。
本当に静かな雨音だけだった。
ユンは微動だにできずに立ち尽くした。
『何か』のシルエットは白いシャツと黒いズボン、細身で小柄。
コーウィッヂそっくりだった。