昼と夜のデイジー 4

二日ほど続いた曇天がようやく解消されたころ、家庭教師が辞めた。
彼女は別の家に勤めることになった。
つまりさらなる問題児を抱えた家に引き抜かれていったのだ。
召使たちは私がこれ幸いとばかりにいつものおてんばに戻ると思っていた。
が、実際はどうだったかというと、一日中机やらたんすやらの中身を出し、また元の位置に戻すということを繰り返していたので、彼らは今度こそ本当に心配し出した。
どうしようもないではないか。
悪戯をする気にならないのだから。
対抗する人がいなくなったからかもしれないし、そもそも普通はそんなことをする年齢ではない。
あの秘密の部屋がなくなり、箒が逃げ出し。
人ばかりいる広い家なのに、私は一人っきりになった気がした。
いい悪戯のインスピレーションが沸かない。
召使たちはなんといっても雇われ人で、デイジーの成長を温かく見守ってくれはしない。
それはこの貿易都市において、どんな家もあっという間に零落する可能性があるということ、そんなとき真っ先にしわ寄せが来るのが自分たちであることを知っているからだった。
情は薄いほうがいい。
失礼します、と声をあげたのはメイドだった。
もう三時になっていたようだ。
晴れやかな空とは別に、やけに苦い紅茶。
それが顔に出ていたようで、メイドは申し訳なさそうにして下がった。
静かにドアが閉まった後でもう一人のデイジーのことを思い出した。
他に何の印象もないのだが、確かお茶を入れるのだけは上手かったように覚えている。
―――――そうだ。お茶の入れ方でも教わろうかしら。
普段だったら絶対に考えないことだが、今はなんだかとてもいいことのような気がした。
少なくとも私以外の人は皆いつでもそう感じるものなのだろう。
ドアの形の真新しい漆喰は、今もまだ白々としてこちらを見つめ返している。
皿の上のフィナンシェは一口もかじらなかった。
メイドがいつもより早く帰ってきたので、おやつの時間はいつもよりも早く終った。
彼女はデイジーではない誰かだった。
「ねえ」
「はい?」
目をぱちくりさせながら、彼女はこちらを向いた。
「デイジーっていう子、今空いてる?」
彼女は少し考えて、ああ、と呆けた声をあげた。
「その子なら、辞めてしまったようですよ」
「え?」
「まだ入って一週間も経ってなかったのに。
仕事もそれなりにこなしていたから、皆残念がってました。
私自身はあまり話したことはなかったのですが…どうやら実家に不幸があったようでして」
「…そう。
分かった。
なんでもないの」
彼女は怪訝な顔をしていたが、すぐに挨拶をして皿を下げた。
メイド長が私に外出してみるのを勧めてきたのは、その日の夜だった。

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翌日の昼過ぎ、久しぶりの外出だというのに全く気持ちが弾まない。
そもそもこれまでも外出がとりわけ好きだったわけではなかった。
人ごみや埃は、私にはきつい。
今日は比較的人気のないところを選んで、散歩しようということになったのだった。
召使たちがそんな提案をしたのは、私の運動不足を心配してのことだと、ついてきたメイドは言った。
これまでは家の中で体の許す限り自主的に動いていた。
当然それは周りに大迷惑なわけだが、それはそれで体力に沿った運動になっていたのだ。
しかしここ一週間、ほとんど動いていない。
彼らは、このままではただでさえ体の弱いデイジーが益々弱ってしまうと思ったのだろう。
それは私を心配してのことではないと分かっているけれど。
散歩というと聞こえがいいが、ようはただぶらぶらしているだけだ。
誰と話すわけでもない。
メイドと話しているのは取りとめのないこと、例えば天気やら体調やら勉強やらのことをつれづれ、といった具合で、たいした内容はない。
つまり面白くなかった。
通り過ぎる人、立ち話する人、ひそひそとこちらを見やる人。
私には一生関わりないだろう俗世間というやつだった。
とうとうメイドとの会話も途切れ、メイドのほうも途方にくれ、家に帰るかということになった。
心の中でガッツポーズを決め、少し足早に進む。
でも結局のところ気持ちは鬱屈していた。
このままいくと、これから毎日この散歩というクソつまらない行事が続くのだろうか。
家庭教師がいなくなったら今度は召使たち。
げんなりしているうちに、家まであと少しという所まで来ていた。
二、三人の人が歩いているだけ。
いつも部屋の窓から見ている景色が広がる。
―――――ん?
何かが自分の中にわだかまった。
何だろう?
この…違和感。
その瞬間、なぜか自分の前四メートルほど先を歩いている人の背中が、見覚えのあるもののように思えた。
細身の若い青年である。
無論顔は判らない。
彼はすぐに、私の家と隣の家の隙間に入っていった。
まるで抜け道でもあるかのように。
しかしその先は何もない行き止まりのはずだ。
私の家の裏口に入りたいのなら、もう一本向こうの逆がわから入ったほうが近い。
隣の家の裏口だろうか?
ほんのちょっとの好奇心で、何気なく首をまわして彼が入り込んだ細い細い隙間に目をやった。
たった一秒の差で、彼はいなくなっていた。