仮に、あのクラフト封筒がエロ本だったとして。
仮に、朝買ってあの二重天井の中に格納していたとして。
ああ、家着いちゃった。
玄関の戸を開けて、靴を脱ぎ、階段を上る。
鞄を放りなげ、階段を降りて台所へ。
で、戻そう。仮に、クラフト封筒を帰りに持ち帰ったとして。
仮に、翌日以降なんかのはずみであの二重天井が見つかったとすると。
そう。二重天井の存在理由が説明できなくなるのだ。
問いただされたら?
『何コレ』
『なんでもありません』
『んなわけないでしょ。明らかに二重天井でしょ。何隠してんの!?(青筋)』
ここから毎日下駄箱調査が入ることになる。
後半は飛び石になるかもだけど、たぶん週単位で続くだろう。
それだけ続くとあそこ以外にエロ本置き場を作る必要が出てしまう。
まあ、そうなるよな。
冷蔵庫から出してグラスに注いだ麦茶をたったまま飲み干し、二杯目を注いだ。
しかしだ。
しかしあのワークブックがあることによってあの先生と恵比寿担任は多分こう変わる。
『もー、こんなとこに置いて!』
『すんません(テヘペロ)』
『ちゃんと持って帰りなさい! この仕掛けも捨てなさいよ!』
徐々にまとまってきた考えに鼓動が高鳴る。
その興奮は、俺を椅子に座る気にさせなかった。
立ったまま麦茶を一口。
そして、だ。
机に両手をついて目をつぶった。
2~3日ふた無しにしてほとぼりが冷めたころに嵌めなおし、またワークブック…それかむしろ他の…ロッカーに入れてもよさそうな技術家庭科とかの教科書を置いておけば。
再度見回りされて見つかっても
『まーたやってんなこいつ。
んー、ただなぁ、授業で使うしなぁ。
ロッカーに置いとけよって話だけど、どうしよっかなぁ。
体操服とかもロッカーに突っ込んでるからあっちのほうが汚くてやだとかいう子もいるし、そこまでしつこくするのもいろいろ面倒だよね。
田中君、ペラペラしゃべったりするほうじゃないし。
これは置いといていいやつではあ・る・か・ら~…。
一旦はエスカレートしてないか釘刺す感じにしようかな。
それとなく「ちゃんと持って帰ってる? ほんとかなぁ~」とかって仄めかして。
うん、そうしよ』
あのさばけたチビメ先生なら。そして恵比寿担任の事なかれ主義なら。
ゆっくりと目を開く。
テーブル上の麦茶のグラスについた水滴がゆっくりとテーブルの上に落ちた。
そうか。それに、もう一つ利点がある。
エロ本とともに毎回仕掛けごと持って帰るという手もあるが、それだとエロ本があるときに二重天井が見つかった際、中を見られること間違いなし。
これを毎回やっておき、ワークブックが入っているときに見つかる率を上げ、あえて見つけさせることで、一回見つかった後二重天井の中身に対して疑問を持たれにくくするというわけだ。
その後は仕掛けごと持ち帰るようにしたっていい。いや、むしろそっちのほうがいいかも。
二重天井があったらさっきの理屈。なかったらないわけだから当然OK。まずバレなくなる。
麦茶のグラスを握る手に力が入りそうになるのを抑え、グラスを傾けてごくごく飲み下した。
田中、パネェ。
マジパネェ。
椅子に座ってポテチの袋の上を左右に引っ張ると、バリっと音がして綺麗に二つに分かれて開いた。
あいつのエロへの情熱は完全犯罪級だ。
チェックに入られるリスクを逆手にとるとは。
俺のネット画像脳内コピーなんて大したことない。
矢島が知ったら敬礼どころか正座して手を合わせるレベルだろう。
もう田中は勇者ではない。
その枠にとどまらないあいつの熱量。
物言わぬものの、その静かな先導性。
クラスチェンジが必要だ。
ぱりぱりと音を立ててポテチが消えていく。
開拓者? いや、ゴッドハンド? 先導者? う~ん。
…教祖。エロの教祖。
でも類まれなエロ画像と豊富なエロ知識をtuuittorの裏アカで回してくる3組の鈴木エロ入門教祖――去年同じクラスだった。なお、その鈴木のエロ知識伝染元は鈴木のお兄さんらしい――とはやはり別ジャンル。
知識より意欲。
指についたポテチの粉を舐める。
おし。決めた。
田中エロ情熱教祖と命名しよう。俺の中で。
ポテチがなくなり、麦茶もなくなり。
エロ画像を見ようという気分には全くならず、部屋に戻って宿題を片付け終わると、夕食の支度は急がないといけない時間になっていた。
常温保存のあれこれがある棚と冷蔵庫の中身を見比べる。
よしこれなら肉無しなのは残念だけど、まだ買い物なしで何とかなりそうだ。
ああそうそう、こいつを先に水につけて、と。
包丁を握ると、厚揚げとキャベツを適当に切った。
ちらりと指が5本ちゃんと消えずにあることも確認する。
今日は金曜日。
今朝時点で影はいつも通り濃かった。二日で薄くなっていた前回よりだいぶ伸びたと見える。
明日またコウダと会うことになっているけど、次回は佐藤。その次は武藤。
他の候補者がいまだに思い当たらないから仕方ない。
みんなそれぞれにやることがあってさっさとどこかに行くか、ずっと誰かとつるんでるか。
未練が残るものの、田中の背後をうまく狙うのも難しそうだし。
捨てがたいんだけどなぁ。
なかなか一人きりになるタイミングが偶然かち合う奴っていないもんだと、気にしてみるようになって初めて気が付いた。
いいひといないかな、ってなんか婚活サイト登録するCMの人みたいだ。早い早い。
一人かぶりを振って紙パックからプラスチックの汁椀に清酒を注ぐも、味噌はその中に沈んだまま塊になっている。
菜箸で適当に割りながら混ぜるとゆっくり一体になっていった。
お湯を沸かした鍋に鶏ガラスープの素・春雨、味付けに鶏ガラスープの素・醤油と隠し味のみりんをちょっとだけ入れて沸かす。
厚揚げキャベツ味噌炒めを作るのは食べる直前でいい。
肉が冷凍庫になかったのが残念だ。
弁当の隙間埋めとおかず兼用に卵焼きでも焼いたら、もう後は冷蔵庫の残りものをあっためて終わりでよし。
まだ時間があった。腹も減ってない。
SNSやる気にもならない。買い物に出直す気もない。
まだ水に浸してる時間が短いけどいいや。包丁研ぐか。
じいちゃんから使い継いでいる四角い砥石を水から上げる。
低い台所の流し台にふきんを敷いて石を置いて包丁の刃をピタッと当てて、前後に滑らせた。
シャッシャッシャッシャッ
時計の秒針の動きとこの音だけが響き渡る。一人の特権だと思った。
普段家では多分何もしないのに家庭科の調理実習になると何かのアピールをしたい女子達の手際の悪さに、実はイラっとしているなどと口が裂けていも言えない。
実習は4~5人1班だしチームワークってことになってるし、声の大きいやつとか腕自慢したい奴が先頭に立つから、俺はいつも通り静か過ごす時間に充てていた。
こんなもんか。
包丁の刀身に親指を当て、刃のあるほうに向けて、刃に対して垂直に動かすと、指先で刃先にできたざらつきを感じ取れた。
他の数か所で同じように感じるのを確認すると、逆の面を研ぎ始める。
そう、しかもそんな手際いまいちのやつが使うのに、家庭科室の包丁は自主的に研がせてほしくなるくらい切れ味が悪い。
そもそも研いだ事あるんだろうか。
切れない包丁ほど下手くそが使うと危ない物はないと、家庭科の先生はちゃんとわかってるのか?
『刃物研ぐのは男の仕事だ』とみっちりじいちゃんに教えられた結果、四角い砥石で研げるようになった。
色々気になるようにもなった。
圧倒的でも不審者でも極めてもないが、ほんのり怪しい人にはなれるかもしれない。
そう思うと、あの包丁で難なくごぼうをささがきしていた弐藤さんは相当慣れているのだろう。
1年の時の実習の時間直前、『「ささがき」って?』と準備に他の女子が聞いてきたから、当日に実演してくれたのだ。
やれるにはやれるけどささがきは苦手とする俺。内心スゲーなと思っていた。
見ていた女子は鉛筆削るのとおんなじ感じで簡単そうだねとコメントしたが、そりゃ上手いやつがやるのは簡単そうに見える。
当時今ほどハブられていなかった弐藤さんは、『うん。簡単だしまな板洗わなくていいから片付けも楽だよ』と言いながら手を止めなかった。
あの子がこの包丁でやったらケガするだろう、やりたいと言い出す前にごぼうを消したほうがいいという、心遣いからの判断だったと思っている。
ささがきされたごぼう片は、みそ汁になる予定のふつっと沸き始めただし汁の鍋の中にみるみる消えていった。
弐藤さん、どうだろう。
でもなぁ。『宇宙人』の中身見たって宇宙だろうからなぁ。あんまり興味ないなぁ。
気が進まない考えをよそに、仕上げ研ぎまで終えた包丁を洗って包丁立てに立て、卓袱台の脇で座布団を二つ折りにして畳の上にごろ寝する。
台所でかがんでいた背中が畳で伸ばされていく感覚は、もしかしたら猫が背伸びするのと同じかもしれない。
縦に伸びることのない背伸びは、だらけた平日の夕方の時間を加速的に進めていった。