今日のコウダのペットボトルキャップは黄色のパーだ。色と形のバリエーションがあるんだろう。
水曜夕方のコウダは前と似たような恰好でペットボトルの水をちびちび飲みながらダイニングの椅子に腰かけた。
「言ったろ。都合よく変わるって」
コウダの説明によると、つまり俺の予想通り。
『あっち』と『中』にかかわる情報がすべて消えた結果、親父に俺がした告白は、俺の額に傷ができているという事実と辻褄を合わせられる別の話に変わったということだった。
じゃあ親父とあの緊迫した時間を過ごし、さらに仏壇と向き合って悶々とした俺の気持ちのやり場はどこへ。
「でもいい親御さんだな」
なんでそうなる。
「記憶が変わってるってことは、元の話をしたお前を信じてたからだ。
お前の頭のどっかが変かもっていうのは可能性としてあったけど、お前が嘘ついてないっていうのは確信だった。
だから世界はそれを『あっち』と『中』にかかわる情報として消したんだ。
はなから完全に嘘だとか頭が変だとか思ってたんだったら多分そのままだぞ」
多少気持ちは盛り上がったけど、なんか釈然としないなぁ。
人の気持ちも世界の理屈の一部なの?
どんな事情だろうと時間は戻らないし、俺にしたってその時を過ごす前の俺には戻れないのに。
「で、影は?」
「今のところ異変ない」
「一応表で見るか」
玄関を一歩出て日光の当たるところで確認する。
ダイジョブそうだなとコウダがつぶやく目線の先の暗さは、コウダの体でできたそれと変わらない。
前回は2日目でもう薄くなってきていたから、前よりも次までの猶予があるということだ。
安藤さんの『中』であんな恐怖体験をした意義はちゃんとあったのだという感動。
自分の体が今足元に形作っている確かな影への愛着がまとめて押し寄せた。
もう犬のしっぽの影に惑わされないで済む。
その事実に『たぶん、しばらくは』という歯切れの悪い言葉のしっぽがつくんだけどさ。
「アンドウさんにはなんか言われたか?」
「いや、…ああ」
メモを見るコウダを目に映しながら安藤さんに思いを馳せる。
翌日の火曜日の朝、安藤さんに――その後先生含めて安藤さん以外の人にも――傷のことを聞かれた。
縫っただけで済んだと答えるとほっとした顔になり、そして、
「『昼間っからあんな酔っ払っちゃってる人同士の喧嘩だよ。まともに相手しちゃだめだよ』って、現場に偶然立ち会った身としてお説教された」
親父ともどもそういう方向で辻褄が合っており、結果俺には身に覚えのない人生の間抜けエピソードが追加された。
本当の話をしたところで俺も相手も混乱するだけだから、他人には昨日さも本当にやったかのように話さないといけないという罰ゲームつき。
先生への説明がとりわけ難所と思ってたけど、俺が一言『すみませんやらかしました』というと安藤さんが補足してくれて助かった。
でもね。そういうんじゃなくってさぁ…。
コウダは黙って肩を震わせている。口を閉じるのが辛そうだ。
まさかそのお説教してフォローもしたその人が日本刀で切り付けてできた傷とは思うまい。
脳内に今も鮮明に焼き付いているあの安藤さん。昨日お説教してきた安藤さん。どっちも真剣そのものだった。
そしておっぱいガン見事件がばれていることが分かった今、深層意識下であんなふうになじった俺に大して他の人に対するのと同じように接してくれることが怖くてたまらない。
なぜあんなことができるのか。
そして安藤さん内であのほとぼりはいつ冷めるのか。
まさか、母さんみたいなことはないよな。
俺が生まれる前の出来事を昨日のことのように織り交ぜて親父に嫌味を言う先日の姿がよぎる。
関係性が違うぞただの同級生だ大丈夫という思いと、母さんと同じ女だろという思いが押し合いへし合いした。
いっそみんなが忘れるのと一緒に俺も忘れて辻褄があってしまえばいいのに。
「なんで俺は全部覚えてるの?」
『こっち』の人間なわけだから、むしろ忘れてしかるべきじゃないのか。
「知らん。
事例がほぼないから。
六界探訪譚の中では、最後6人目が終わった後もずっと覚えているようだった。
今回はどうかわからんが、ずっと覚えてても不思議じゃないな」
毎回忘れられたら毎回説明がいるから便利で助かる、とコウダは完全に他人事の顔だ。
ケガしたのは自業自得だし全面的に助けてもらってるから文句言えた義理じゃないのは重々承知だけど、こういう時なんか悔しい。
「今回ので色々懲りたろ」
当日の帰りには言わなかった嫌味は刺さるものがある。
「テンパってたしな」
はじかれたように顔を上げるとコウダは無表情のまま。
テンパってた自覚はあった。けどそれを悟られた自覚はなかった。
「お前があんなによく喋るとこ初めて見たから」
そうだっけ? まあそうなんだろう。
いつもは考えてから言うことのいくつかが、『中』では考える前に口から出てしまっていた気はした。
「次はじろじろ見たりするなよ」
ゆっくりと首を縦に振る。
多少自信ないけど。
「振り返るのも厳禁だからな」
もう一度しっかりと首を縦に振る。
こっちは自信あった。
あのおっさんの抜刀と追っかけてきた兼さんと日本刀を構えた安藤さんを思い出す。
あの後古い時代劇の動画を何個か、大抵十数人いる悪人役がカップ麺作るくらいの時間でばさばさ切られているのを目の当たりにして、コウダが恐れていた事態へのわかり味はだいぶ深まった。
もっと前に見ていたら純粋にカッケェと思えただろうあの動画が『中』での経験のせいで恐怖神話になってしまい、全く楽しめなかったのが残念でならない。
とにかくもう振り返るなんて恐ろしいことはできそうになかった。
「俺もよくなかった。
六界探訪譚に追われた話は書いてあったのに、お前に飛び道具とかの一時しのぎ系のものを持たせなかった」
捕まって調べられる可能性も考えたからなぁとぶつぶつしている。
「その六界探訪譚って話、読ませてよ」
それが一番早い気がする。
なんで今まで思いつかなかったのか。
「借り物でお前に貸せない」
「コウダがずっと端っこ触ってりゃいいでしょ」
消えなきゃいいんならそれで解決のはずだ。
「いや、そうじゃない。協会の会員限定で閲覧可能になる禁帯出本なんだ。
資料室から持ち出せない。
それに、大人にもキツイような描写が出てくる。
かいつまんだ解説書もあるが変な先入観持たせたくない」
「平気だよ」
大人にもキツイってグロいとかかな。
今時ネットにいくらでも転がってるし、慣れてるからいい。
「だめ」
かたくなに首を横に振るコウダは折れそうにない。
「じゃコウダが読んだのを先入観持たないようにかいつまんで教えて」
できない、と言いながらコウダは俺を見ながら水を一口。
口元にこぼれたしずくを手で拭って続けた。
「それをすることに大して意味がない。
人の『中』なんて人による。
六界探訪譚にはターゲットの人となりは書いてない。
書いてあるのは『中』に入ったときの状況や出来事、事前事後の日常生活だけだ。
それから人となりを逆算しても憶測でしかない。
『中』との行き来に慣れてないお前がそんなことまともにできるとは思えない。
それよりも、今ターゲットにしようとしてるメンバーの人となりや行動なんかを聞いて俺が『中』を推測し、その内容をお前に展開したほうがよほど有意義。
お前にはメンバーのことを俺に説明するほうに限られた時間を使ってほしいんだ。
前回ああなった最大の理由は事前の認識合わせの時間が少なかったことだと思っている。
今度からはもうちょっと事前予想を立ててやりたい。
そのために、今日はいいから、次会うときにサトウくんの話をいろいろ聞かせてくれ。
俺じゃわからん。お前にしかできないんだ」
頼む、とコウダは真剣そう。
なんだけど、なんだろう。なんか引っかかるなぁ。
こういう感じで『お前に期待してる』的なことを大人がまっすぐ言ってくるって、なんとなく裏がある気がする。
ただ、言ってること自体には突っ込みどころがないように思えるから反論しにくい。
俺としてはコウダが六界探訪譚の本を持ってくるか話してくれるかしない限り内容はわからないわけで。
コウダの協力がないと消えちゃう身としてはこれ以上どうしようもなかった。