新説 六界探訪譚 2.第一界ー4

 男は玄関から人が出てくるのを待っているのか、玄関のほうを向いたままそわそわ動いている。
 裸眼のやつにもうらやましがられるくらい目がいいのがこういう時役に立つ。
 結構な距離あるが、見える。
 じろじろしない程度、つまりちらちらなら見ていいってことだよね。
 横目で様子をちらちらすることにして、前に進みながら観察する。
 女の人が出てきた。どうも若い。どっちかというと縦より横に長い顔。
 肩から少し下くらいまでの長さのサラサラヘア。前髪らへんは後ろのほうにまとめているのか?
 後ろ手で玄関の戸を閉めているようだ。
 身長は男の人とほぼ同じくらい。
 あのぺらっと感とさっきまでのひらひらした挙動不審な立ち姿、やっぱり見たことあるぞ。
 女の人のほうは、ぱつぱつの派手な色のTシャツの上に、地味なチェックの厚手のシャツを羽織っていて、胸はまあ普通。
 デニムのミニスカから除く脚は残念ながら太め。
 結果こっちもぱつぱつ。
 太いわけじゃないと思うけど、男の人が厚みのないぺらっとした体形のせいか、並ぶとちょっと大きく見える。
 ただ、この人もなんか見覚えがある。
 あの目元どっかで見た気が…。
 会ったことがあるかなぁ。
 どこで見たんだっけ。
 待っていた男の人は女の人がドアを締め切ったところで女に人の前に立ち、いきなり右腕で壁ドンした。
 女の人はクスクス笑ってる。
 男の人はちょっと陰になっていてまだ顔が見えないが、肩を震わせているから、やっぱり笑ってるんだろう。
 身長差があまりない二人だけに、壁ドンだけで顔と顔が近い。
 女の人のあの笑い顔、やっぱり見た顔だよなぁ。
 なんか家で見たような…。
 あ! 母さん!
 そうだ、昔のアルバムで見たんだ!
 天パーでふわふわしているのが、写真の中ではストレートだったから聞いた覚えがある。
 学生時代で、バイトしてためたお金で美容院行ってストパーかけてた時だって言ってた。
 てことは。
 男がちらっと右を確認した。
 顔、わかるかも。
 でもな。いやまさかね。
 そんな。ないない。ないよ、ね?
 そして予定通り今度はちらっと左。
 …親父!!! やっぱり!!
 予想が外れてくれればと思ったのに。
 どうりで見覚えがある立ち姿なわけだ。
 すっごいニコニコしてる。
 こんな顔見たことない。
 怖い。そして気持ち悪い。
 若い母さんのおでこにおでこをくっつけてぐりぐりしている。
 母さんは余計におかしそうに笑っているが、親父はおでこを放し、なんか急にちょっと真面目腐った顔になった。
 単体で見ると普通だが、若い母さんと一緒に見ると違和感、というか犯罪感がすごい。
 だって親父のほうは今と同じ顔と服装だから。
 大目に見ても20代前半の母さんと、40代半ばの親父。
 まあそういう年の差カップルもいるだろうし別にいいと思うけど、目の前の惨状については事実を知っているだけに飲み込めないもんがある。
 いちいちきざったらしい親父のモーションも含めて、生理的に受け付けない。
 こうなるとその親父譲りの視力が恨めしい。
 普段滅多にできない目尻の笑いジワが、笑っていても小ジワ一つできてなさそうな母さんの顔と並んでるとこまでよく見えてしまう。
 毎日見る親父のあの釣り目はどういう理屈か垂れ下がっていた。
 だいぶ近づいてきているが、向こうは俺には気づいていないようだ。
 バレたってどうってことないと思うが、親父に見つかっていないということ自体に胸をなでおろしてしまうのはもう本能か。
 ていうか親父、右左確認したのは何のためなんだよ。
 実の息子だぞ。むしろ気づけよ。
 迂闊もいいとこだ。そういうとこがじいちゃんに間抜けって言われてたんだぞ。
 向こうは相変わらず二人の世界でこっちには見向きもしない。
 見なきゃいいんだけど、それができたら苦労しない。
 もうすぐすれ違う。
 目にはいらなくなるぞ。よかった。
 が。
 その前に一旦半歩だけ離れた親父の顔が多少左に傾き。
 母さんの上気したつややかな顔に被さるように近づいて。
 うわぁぁぁ゛あああ゛アア゛ァああああああ゛あ゛あああアぁア゛ァアアああああああ!!!!
 ムリ!!
 無理無理無理!!
 瞬間はちょうどすれ違いざまで見えなかったけど、全力疾走してここから今すぐ遠ざかりたい気持ちを抑えこみ、何とか男の歩調に合わせて歩く。
 もう通り過ぎたんだ。
 そうだ、もう大丈夫。
 俺の手を引く男はそんなことお構いなしで前に進んでいく。
 振り返るのが怖い。振り返るなって言ったのは、こういうのを予測していたからなのか?
 男子中学生には刺激が強すぎる親ネタ――それも今は別れた両親による現実にはあり得ない年齢差親ネタ――を目撃した余波で、さっきまであんなに気になった周りの風景に気が行かない。
 確か大学生のころ付き合いだしたとか聞いた気がする。
 川藤さんは付き合ってた頃から二人を知っていたって前に言ってた。
 親父と母さんのああいうの、もしかして見たことあるんだろうか。
 今まで気のいい知り合いのおじさんだった俺の中の川藤さん像がちょっと崩れてきた。
 いや、『気のいいおじさん』は変わらないんだけど、そういえば『親父の学生時代の先輩』。
 驚きというか発見というか。
 しかしなぜなんだ川藤さん。なぜこのタイミングでこんな見通しのいい場所で。
 百歩ゆずってそこは飲んだとして、イチャイチャさせるならせめて年齢は揃えて登場させてくれてもいいじゃないか。
 だめだだめだ、気をしっかり。
 自分に言い聞かせていると、いつの間にか坂の頂上。
 どうやら冨士見坂の上に出たようだ。
 色々忘れてつい振り返ってしまった。
「あっ」
 しまった、と思った矢先、目の前の景色に吸い寄せられるように動けなくなる。
「どうした」
 男の声だけ聞こえるが、目の前に見とれてしまって返事がお留守になった。
「おい、どうした」
「富士山」
 なだらかな雪をかぶった山の形が雲もなくくっきりと浮き上がってる。
 昔は冨士見坂の上から見えたんだと川藤さんがよく懐かしがっていたが、こういう感じなのか。
 ひらり
 宵中霊園でも見た花びらが舞い落ちて、視界の中の富士山にかかる。
「こっち向け!」
 男が焦った声とともに後ろずさって来る。
 絶景から現実――なのかわからないが――に引き戻されて前を向いた。
 こっちは富士山と違って大いに見覚えがある。上諏訪神社だ。
 ここの桜もきれいだが、人がいないのはなんだかんだで神社なのと、上野公園と宵中霊園に取られているからだろう。
 男は器用に後ずさって俺の横に来て、
「視界に人はいなかったか」
 早口だ。
「いなかった」
 確かに人ひとりいなかった。
 今見た景色のすがすがしさで、坂の途中でみた両親イチャイチャの生々しいインパクトがちょっとだけ中和されたところだったのに、蒸し返すなよ。
 少しだけ待って、男はまた、
「目が合ったりは? 変なところはなかったか?」
 いた前提でまた早口で聞き返される。信用されてない。
「人がいないんだから目ぇ合わせようがないって」
 男は息をついた。
「ほんとに気をつけろ。目が合うのが一番危ないんだ。急に振り向きざまに人がいることもある」
 男の口調が元に戻った。何が危ないのかわからないが脂汗かいてる。
 まあ危ないんだなと思っておいてやろう。しょうがない。
 男がじっと神社の鳥居を見る。次いで腕時計を見る。
「もうちょっとだから。ここからしばらく何があっても喋るなよ。もちろん振り返るな」
 どうももう小一時間経っていたらしい。
 さっきからほぼずっと喋ってないんだから改めて言う必要もないだろ。
 眺めていた鳥居から迂回して脇の道路からぐるっと回り、入口近くをちょっと入ったところでこそこそ何か鞄から出してる。
 鞄から出たのは普通のロープ。
 よかった。もしあのカバンが某有名猫型ロボットのアニメと同じように四次元ポケットで鞄よりでかいものが出てきたらどうしようかと思った。
 神社に入って脇の石段を上る。
 結構急なんだよなここ。
 多少頑張って登って右の境内を見ると、土とお社と古びた石作りのあれこれ、そして桜の幹がごちゃっとなったところに、花びらで薄紅色のまだら模様が出来上がる。
 人の気配はもちろんない。
 あんなに危ないとかなんとか言っていたけど、危ないところなんてどこにもないじゃないか。
 神社の奥にはもしかしたらいるけど、それにしても宮司さんくらいだろう。
 改めてあたりを見渡した男はにやりとした。
 そのまま賽銭箱の横まで来る。
 男は上を見上げて小さくガッツポーズ。何がそんなにうれしいのか。
 さんざん黙れとか逃げるなとか注文付けといて。
 男は手を降ろし、軽く息を吐いた。
 そして正面に出るのかと思いきや、土足で賽銭箱に上りだした。
「あ」
 俺が多少声に出してしまうと男は遠慮なく振り返ってきて、今までで一番おっかない目つきで睨まれた。
 振り返るなって言ってたのに、今はオッケーなのか?
 かがんで耳打ちしてくる。
「落とすから、もし俺が取り逃したら取って」
 男は立ち上がり、ロープを賽銭箱の真上にある額に投げた。普通と思っていたロープの先には輪がついている。
 もしかしてこれってやっぱり。