新説 六界探訪譚 2.第一界―1

 やべえ。目的の品は手に入ったけど。
 買い物袋なしでケチャップのポリ容器の細いほうを握って、今日の夕方来た道を小走りになぞりながら、まだ暑い夜の空気での汗、運動での汗とともに、冷や汗が流れる。
 うっかりあの後寝過ごし、起きたら8時。
 寝すぎたと慌てて夕食の支度兼明日の弁当の準備をしだしてからケチャップ――ちょうど切らしているうえにチラシによれば今日はいつもの3割引き――を買っていないことに気づく。食後に小銭を握りしめて家を出た。
 この時、時間を見ておけばやめておいたかもしれない。
 でも卵と言ったら、ケチャップ。
 明日の夕食の段取りを考えても外せない。
 他の材料はすべて買ったのだ。
 走り出し買った帰り道、もう10時近い。
 親父が早ければ帰ってきている可能性ありの時間。塾も習い事もない中学生がふらふら出歩くには遅い。
 親父は基本話せばわかってくれるけど、付き合いの酒で疲れ切って機嫌が悪いだろう。
 話すのがだいぶ面倒だ。出だしからややけんか腰でにらみつけられる。
 恵比須担任とはわけが違う。
 小走りに走り、コンビニ脇をすり抜ける。
 足だけは速いほうだが、このあたりはたまに夜自転車が飛び出してくるので全力疾走できない。
 スカイツリーが見えるあたりに近づいてきた。
 そろそろ走っていいかな。
 全く今日はそういう日なのかなぁ。
 うっかりしたり説教されたりするっていう。
 月明りの下、前に二人人が見える。
 一人はこの暑いのに長袖長ズボンで、もう一人は肩を借りている。
 どうも酔っ払いのようだ。
 見覚えがあるアロハシャツ。
「ほんとに家こっちなの?」
「いやーぁちがうちがううちはそっちなんだよーぉおっとぇ、んこっちこいよぉーん」
「さっきこっちって言ってたろ。向こうは来たほうだぞ」
 べろんべろんな川藤さん、絵にかいたような千鳥足。
 向こうと指さしたほうはファーストミュージックパサージュの方向。
 多分、あの奥にある行きつけの店に行ったんだろう。
 酔っぱらうと楽しくなっちゃうタイプの典型、川藤さんのおうちは、その来たほうのさらに坂を下ったところだった。
 声かけてもいいけど、時期的に寒いわけじゃないし。
 川藤さん、よくその辺で目が覚めたとか武勇伝にしてるし。
 加えて、家の居間で般若のように眉をしかめ胡坐をかいてこっちをにらむ親父の顔がよぎった。
 川藤さんは角にある観光案内の看板の鉄パイプに抱き付き、つめたいところもすきやね~んと言いながらほおずりしている。
 宵中生まれ宵中育ちが自慢なんじゃなかったのか。
 黒Tシャツ長ズボンの男は、川藤さんをべしべし叩いた。
 もうそれほっといていいやつじゃね?
「ここはあんたんちじゃねーよ」
 うん。ほっといていいな。走り去ろうと速度を上げた。
 すれ違いざま、ぼそっとつぶやかれた鼻で笑うような言葉が耳に入ったのは、平日の静かな夜だったからだと思う。
「ふう、やっとつぶれてくれたか」
 再び少しずつ速度を落とす。相手は大の大人。振り返ってチラ見した後、少し先のアパートの階段の壁に隠れた。
 男の尻だけは見えるが、川藤さんの体が見えない。
 相手は鞄を探っている。何か取り出した。
 チャラチャラと金属のようなものが擦れ合う音がする。
 起き上がって前後左右を見回した。またかがむ。
 そっと、足音を立てないように、川藤さんの姿が見えるところに移動する。
 振り向かれたら終わりだ。
 暑い。止まっているのにさっき走っていた時よりずっと。
 なのに背筋がぞっとして冷や汗が出る。
 男は川藤さんの体の横の当たりに手を当てていた。
 ジャーと何かがさっきより滑らかに流れるような音を立てる。
 川藤さんが危ない。
 なぜそう思ったのか。
 その時もうちょっと落ち着いて、よく見て、大人を呼びに行くとかすればよかったのかもしれない。
 認めよう。
 焦っていた。
 説教されたりしたせいでむしゃくしゃしていて、思えばケチャップにしても、わざわざ買いに出たのはちょっと走ってすっきりしたかっただけだったような気もする。
 男に全力でとびかかる。
 うずくまる男の上半身が見えない。
 男は前に進んでいる。
 必死で、そのことについて、何も考えてなかった。
 男を捕まえようと近づいた。
 捕まえた。男は足首を掴まれたことに気づいて膝から下を振ったけど、そんなに大きく振れなかったために俺の手は離れなかった。
 振れなかったのは理由がある。
 足首の当たりが穴の入り口にあったから。
 ちょうど人が入れるくらいの。
 男の足首になのか、その三角形の穴になのか、すっと吸い込まれるように俺も穴の中に入っていった。
 実のところ穴に入ったという感覚すらなかった。
 頭の中には捕まえてやることしかなかった。
 だから、転がり込んでその場で地面に落ちたときも、男の足首から手を放さなかった。
 男の足首を抑え、ワンテンポ早く四つん這いから立ち上がって次にやったことは目の前の男をケチャップで殴ることだった。
「待てよ、お、ちょっ、」
 男はくぐもった音を口から出し、体を曲げてごちゃごちゃし、何かを鞄に突っ込んだ。
 ポリ容器入り半液体のケチャップで殴ったところで、容器は男が鞄でガードしている頭らへんをバインバインとリズミカルに跳ねるだけだ。ここでもやっぱり落ち着いていたら、素手に変えるとか、蹴るとかしただろう。
 もうケチャップを包むぱりぱりの外袋は取れてきてる。
 手からボトルが滑りそうになり、外袋を外す。
 一打すると、さっきより跳ねる感じが少し減った。
 男の鞄が赤い。
「あっ、ああ」
 鞄についたものを確認してショックを受けている。
 ガードを緩めた男の頭を思い切りもう一打すると、すでに傷が入っていたケチャップ容器ははじけた。
 大破した武器を投げ捨てて振り上げた俺の手首。
 目元のケチャップを拭ってさっと視界を開けた男はタイミングを逃さずそれをつかみ、そのまま俺の背後に回って腕を固めた。
 すぐにもう一方の手首もひねり上げられる。
 外し方だけはじいちゃんに昔教わってたけど、相手のほうが早かった。
 まだ大人の力にかなわない。
 叫ぼうとする口も押えられ、とりあえずじたばたする俺の耳元で、男はため息交じりだ。
「前、前、よく見ろ」
 満開の桜並木が日の光に照らされ、花見客ががやがやしているのが見える。
 宵中霊園での地元民の花見は、毎年四月ごろの風物詩だ。
 それがどうかしたのか。
 何が言いたいんだこいつ。
 別によくある風景じゃないか。
 昼間から飲んでるなんて、花見シーズンなら。
 …花見シーズンの昼間なら。
 俺が固まったのを確認して、男が俺を開放した。
「説明するから。殴るのはやめろ。あと、気にしてるカワトウさんはさっき見つけた。あそこ」
 男が指さした先は桜の下、間違いない川藤さん。
 桜吹雪を浴びながら半袖のアロハシャツでキレッキレのオタ芸を披露し、車座になった観客の喝采を浴びている。
 いつもならあそこでは車座にはなれない。通行人の迷惑になる。
 宵中霊園では数人で軽くワイワイだらだらするまったりお花見が限界だ。
 周囲には苗字やミミズの這ったような字が書かれた墓石。
 足元には大小高低もまばらな石畳が並ぶ。
 振り返ると男は頭からケチャップを流しながらため息をついた。
 顔色が悪い。本当に大量流血したらこうなるかも。
 そのままハロウィンパーティーなんです、といっても違和感なしだ。
 それかもうドッキリです的な? だったらまあ、うん、納得?
 できるわけない。
「ちょっと場所移すぞ。酔っ払いとはいえ本人に近すぎる」
 言葉が出てこない。男は俺の手首をつかむ。
 男のほうを向くことはできたが、茫然と眺めるのが精いっぱいで振り払う余裕などない。
「離すなよ。前と足元に気をつけろ。振り返ると危ない」
 男が目線と頭のちょっとした動きで『付いて来い』のジェスチャーをすると、男の前髪が揺れて俺の頬にケチャップの飛沫が飛んだ。
 少し見上げる位置にある浅黒い男の縦長の顔と神社の狐に似た目はやや冷たく、いつかどっかで見たみたいだ。
 歩きながら片手で器用に頭を手で拭ってべちょべちょと残骸を落としていく男。
 男の歩く速度は俺より早いはずなのに、意識も足元もおぼつかなさすぎ、どうやって俺の足が遅れずに動いているのかわからない。
 こっちにも流れてくる桜吹雪は、ひらひらと舞いながら男の頭にぺとっぺとっとへばりいていく。
 地面のケチャップ溜まりを踏んだ俺の足は、ケチャップと花びらを混ぜて石だたみに練りこみながら前に進んだ。
 明日の晩ご飯オムライス計画が宵中霊園の石畳に赤い足跡になって消えていく。
 あんなに楽しみだったのに、振り返って惜しむ気持ちは全く湧かなかった。