「ああ、勘違いしないで。なにも僕んちに泊まっていけっていうことじゃないんだ」
ドルは両手を前に差し出し、違うんだよと繰り返した。
「僕の故郷の辺りに、療養って名目で泊まりに来て。空いた時間を見て、僕の実家に来るんだ。二人でのんびりしよう」
「そりゃまずいわ。二人でってとこが。誰かついていっちゃあだめなの? というか、そもそも何で二人きりでいる必要があるの?」
ドルは、んん~、とうなり声をあげて、少し黙っていた。うつむいた顔を挙げたときは、いつものドル、何か腹に一物ある感じのドルだった。
「要は、こっち二人がデキてる感じに、芝居を打つんだよ」
デイジーは面食らってしまった。
ドルが言うには、ヤキモチにはバカップルで対応するのが一番だというのだ。二人でべたべた演技をすれば、箒とモップはだまされるのではないか、ということらしい。箒とモップが馬鹿なのは、そもそも互いにヤキモチを妬きあっている時点で確定。
デイジーはだめだと言い張った。
「だって、私女の子だしさぁ。二人っきりはマズいわ」
「大ジョブでしょう。だって僕だし」
だから無理なんじゃないか、とデイジーは心中でつぶやいた。
ドルは若い。若い男と二人きりは、箒とモップ以外だって仲を怪しむだろう。
「何で僕だから大丈夫なの?」
ドルは問いに答えた。
「メイド長達の信頼は厚いからね。彼女たちなら丸め込める自信、ある」
本当に自信があるのか、ドルの表情からは分からない。何しろいつも何か企んでいるようなところがある彼だ。自信の有無もほとんど分からない。
ひとつだけ分かっていることがある。
ドルは乗り気で、止めても無駄だろうということだ。
「でも…」
デイジーは形式的な反論に出ようとした。だがそれは、ドルによって遮られてしまった。
「デイジーは、やっぱ嫌かな。僕と二人でいるの」
聞いた途端に、何かが私の心臓を締め上げているような。デイジーはそんな感覚を初めて知った。
「え? ううん。そんなことないよ。楽しいよ」
─────あれ? 私何言ってるんだろう。
空気の流れが止ったような感覚が付きまう。手にはなぜか脂汗が浮かんで。
ドルが反応を返したのは、デイジーが答えを出す前だった。
デイジーの心臓は次第に速度をあげていた。
「なら、よかった。うん。よかったよ」
ドルの笑顔の底には、いつもの奇怪な淀みはなかった。ただ、すがすがしさだけ。
─────あの言葉は何? あの表情は、何?
止っていた空気は一気に流れた。ジワリとにじんだ脂汗も乾き、心音はいつもどおり。後に残ったのはただ、デイジーの疑問だけだ。
「じゃあ、早速今日の帰りにでもメイド長に相談してくるよ。楽しみだなぁ~」
「そ、そう。じゃあ、よ、ろし、く。うん。よろしく…」
ドルはニコニコだ。
デイジーはうろたえてしまう。笑顔になれない。なぜだろう?
その後ドルが何を話していたのか、デイジーは覚えていない。
いつもなら、勉強していたのか与太話をしていたのかぐらいは覚えているのに、今日はそれさえ分からない。
ドルが軽い足取りで部屋を出たあとは、なんだか空っぽな部屋に寂しさを感じた。
ドルは、何であんな聞き方をしたんだろう。それ以上に、私は何であんな答え方をしたんだろう。
一人になって考えると、以外にもすんなりまとまってきた。というよりも、まとまってきてしまった。
ドルがああいう聞き方をしたのは、演技をする上でデイジーが嫌がっていては問題があると思ったからだ。二人は“いちゃいちゃらぶらぶ”ということなのに、片方が嫌がっているそぶりを見せたら、計画は台無し。
一方、デイジーがああいう答え方をしたのは。それは。
─────気のせい…
違う。自分でも分かった。
それは、つまり。
ドルが本気で二人っきりになりたいと思っているように見えてしまって。ドルが寂しそうに見えてしまったからだ。
そしてデイジーはといえば、ドルが寂しそうにしているんだ、自分がいてあげれば、と思ったのだ。だから、思わず言ってしまった。一緒にいるのは、楽しいのだと。
本音を言ってしまった。
家庭教師と一緒にいて、他人と一緒にいて楽しいと思ったとなんてなかった。ずっと一人だから。父と母はデイジーのことなんて見ていやしない。召使達は仕事がついて回っているから見てくれているだけ。そう割り切っていた。割り切ろうとしていた。
ドルといると、調子が狂ってしまう。おかしい。
だって、そうなのだ。ドルにしたって、目的があってデイジーに近づいている。箒を厄介払いするという、大きな大きな目的。それが終われば自分のような小娘はどうだっていいはず。
箒が厄介払いできたら、ドルはいなくなる。
そしたら私はまた一人。
─────いや、今だって、十分、一人じゃあないか。
ドルはデイジーの追求をいつものらりくらりとかわしている。デイジーはドルのことを何も知らない。実家があること、病気のおばあさんがいること、モップに乗っていること、箒を厄介払いしたいこと、これぐらいだ。ああ、もうひとつ。召使達の信頼は絶大。
ようはデイジーはドルにやられっぱなしで、仕返しできないでいる。
くやしい。そう思うのは、自分が子どもだからだろうか。世間知らずだからだろうか。それとも絶対にやり返せないからだろうか。
正しく言えば、絶対にやり返せないわけではないと思う。でも、それはしたくない。だって。
─────だって、ドルは傷ついた顔するから。そういうの、見たくないから。
本当にドルが傷ついているかは分からない。だが、こういう感情を何とかして、どうにかして、どこかにやってしまわなければ。
デイジーはこの想いの正体を掴みかかっていた。だからこそ手遅れになる前に振り払おうとした。
しかし常々言われているとおり、振り払おうとすればするほど膨らんで、もうどうにもならないかもしれないことも、デイジーは薄々感づいていた。
爆発しそうな何かを必死で奥へ奥へと押さえ込み、何事もないかのように夕食を食べ、眠りにつけたのは奇跡に等しかった。