翌日、用事があったんだと言い張るドルを説得するのには、一時間かかった。
「昨日、家の前をモップで飛んだ?」
「うん」
「なんで?」
「なんとなく」
「嘘でしょ」
「うん」
ドルが根負けして、わかったわかったと口走ったとき、私の胸は高鳴った。
「届け物をしてたんだ」
「届け物?」
「そ」
「なんであんな時間に?」
「夜じゃないと、先方がいないんだ」
「ふ~ん」
「もういい?」
ドルが話を切り上げようとした。
とてもとても珍しいことだ。いつもだったら、嫌がる私を無理やり与太話に引きずり込み、時間を使おうとする。
ドルの表情はいつも通り瓢けていたけれど、私は違和感を隠さなかった。
「で、何を届けていたの?」
「本だよ。本。あげるって前々から約束してたんだ」
「どんな?」
「ただの小冊子なんだけど…知りたい?」
ドルがこちらに真顔で尋ねてくる。ドルの髪の毛が窓から差し込む光に反射し、燃えるような赤を示す。
知りたいに決まっている。
私はうなずいた。
「あのね…うん、君に教えちゃうと色々まずいんだよね…」
「そこを、お願い!」
「駄目」
ピシャリとはねつけたドルは、教科書を開いた。
「じゃ、ここから」
「えぇ! イヤよ」
今の今まで”ベンキョウ”のベの字も出さなかった彼が、いきなり教科書を持ち出すなんて。
「イヤ? ホントに?」
男にしては高めの声が、私の耳元で囁く。
「や」
耳に少しだけ息がかかるのが気色悪かったから、私は顔をドルと逆のほうに向ける。
左の後ろでクスっと笑いが漏れた。
ドルの雰囲気が少し柔らかくなったのが分かる。
「そんなこと言わないでよ。デイジーお嬢様」
首筋を何かがそろりとなぞった。
「ひゃっん! ちょっと!」
思わず振り向く。ドルの顔が間近に迫っていたから、思わず後ずさり。
「…うん。いい反応だね」
ニッコリ。いつものドルだ。
「ずるい!」
「何が?」
ドルは真顔で尋ねる。私一人、なんだか体中が熱い。特に顔。
「だって、だって…」
言葉が出ない。
「言葉にならないなら、それは理由とは言えないよん。じゃ、教科書ね」
ドルは一体何を考えているのだろう。
その日は一応教科書を進めたはずなのだが、何の教科書かも覚えていない。
「じゃ、また明日ね」
ドルはいつも通り飄々と帰っていった。
ドアが閉まる音と共に、盛大なため息をつく私。
なんだか今日は疲れたな。
「お嬢様、失礼します」
メイドが入ってきた。何の用だろうか。
「なぁに?」
メイドは、あの…と話し出し、少し間を置いて続けた。
「メイド長の提案で、このところ体調もよろしいようにお見受けできるので、午後の散歩を再開しようかというのが出ているんです。お嬢様さえ良ければ、どうでしょうか」
散歩。そういえばそんなのもやっていたか。
もうほとんどその存在を忘れていた。
「うん。いいわよ」
ほとんど即答していた。私に必要なのは”そういう”時間だ。
メイドは少し嬉しそうにした。
「分かりました! じゃあ、早速明日からでも!」
「よろしくね」
「はい!」
「そんなに喜ばれるとは思ってなかったわ。たいしたことでもないし」
「いえ。そんなことございません。召使仲間でも話していたんですよ。最近のお嬢様は凄く楽しそうだって」
「え?」
「では、失礼します」
会話の繋がりがおかしかった気もする。でも、それ以上に、召使たちの間で、私のことがそんな風に話題に上っているなんて思ってもいなかった。
私、本当に最近どうにかしてるわ。